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若田光一飛行士が宇和町へ来られた経緯

1.なぜ宇宙か・・・・・それは宇宙メダカが始まりです[1994年]
 思い起こせば、私が宇和町商工会青年部理事の頃でした。1994年暮れのことです。

 れんげ祭りに商工会青年部のイベントとして何をするかということを話し合っていたとき、誰かが「金魚すくいをしよう!!」と提案しました。しかし、単に金魚すくいでは面白くないので、「宇宙メダカにしたらどうか」と私が意見を出しました。

 しかし、94年に向井千秋飛行士がスペースシャトルの中で誕生させたメダカは当時貴重品でした。
 この宇宙メダカの子供が4匹、東京大学アイソトープ研究所の井尻教授から、双海町のメダカおじさん・川口寿雄さんに送られたということを聞きつけ、双海のメダカの学校へ川口さんを訪ねました。その時、川口さんはたいそうそのメダカを大切にしていて、数十匹まで増やされていました。
 そこで、この宇宙メダカすくいの話をしたところ、とんでもないことだと一笑に付されてしまいました。我々が考えていたほど、宇宙メダカは身近なものではなかったのです。

 結局、れんげ祭りには、川口さんから普通のメダカを来た子供に4匹ずつプレゼントしてもらうということと、宇宙メダカは4匹宇和町へいただき、それは宇和町小学校で飼育して繁殖させるということになりました。

 れんげ祭り当日、メダカのプレゼントが欲しいと来た子供たちは、200名にものぼりました。また、そのとき川口さんから送られた宇宙メダカは、2002年4月現在、宇和町小学校の理科室で数十匹が元気に生き続けています。 
2.宇宙飛行士を宇和町へ迎え、子供たちに夢を!![1995年]
 「宇宙メダカが宇和町へやって来るんだったら、宇宙飛行士の向井さんも宇和町へ来ていただき、子供たちに宇宙の話をしてもらおう!!」などという、なんとも安易な発想をしてしまいました。

 しかし、それは当然無理な話だったのですが、実際に宇宙開発事業団が宇宙飛行士を各地へ派遣して講演をするという制度があるということが、このときわかりました。それから、数ヶ月に1回は宇宙開発事業団広報室へ電話をかけるということが始まりました。
 何度も何度も連絡しましたが、宇宙飛行士はNASAで訓練を受けていたり、スペースシャトルが飛行しているときは全員がミッションで地上サポートに回り、日本へは帰国できないということを知りました。

 結局、れんげ祭りでは、川口さんにメダカへの思いを講演していただきました。
 また、向井千秋宇宙飛行士には、「宇和町の小学生のみなさんへ」というテーマでビデオを作成していただき、宇和町へ送っていただくことになりました。
 「夢に向かってもう一歩!」
これが、向井千秋宇宙飛行士から、宇和町の子供たちへのメッセージでした。

 当時、インターネットはありませんでしたが、NIFTYというパソコン通信を駆使して、有名人住所録から向井千秋さんの住所を突き止め、ダイレクトメールを送ってビデオ作成をお願いしました。また、そのお礼として、「山田やまんじゅう」を送ったのですが、食べていただいたかどうか未だに気になっています。


 この時、宇宙の話を宇和町で直接聞くという夢は実現しませんでしたが、「宇宙メダカに託した我々の夢を、是非子供たちに伝えたい!!」という気持ちを強く持つようになりました。
 また、この夢を子供たちに伝えてあげることは、私たちの使命でもあると思うようになりました。これは、教育という意味でも、大変大切なことだと思いました。
3.宇宙開発事業団へ正式申込[2000年]
 「子供たちに、夢を伝えたい」、「宇宙の話を間近に聞かせてあげたい」そんな思いを抱いたまま、私は宇和町議会議員となりました。

 「宇和町の子供たちのために自分に出来ることは何だろう?」
そう考えたとき、我々からのメッセージを子供たちに伝える、つまり、「みんな何でも良いから自分の目標をもって、それを実現するために歩んでいって欲しい、そんな目標をつかんで欲しい」、そのために自分は「是非とも宇宙飛行士を宇和町へ招いて、そして、生の声で語ってもらう」という不可能な計画を、なんとしても実現したいと思いました。

 しかし、その時、不幸なことに宇宙飛行士を派遣して講演会をするという事業は、宇宙開発事業団では中止となっていました。それにもかかわらず、全国からの申込は年間400件にものぼるということでした。(これは、後でわかったことです。その中で、実際に宇宙飛行士が行けるのは10件ほどだそうです。)

 この計画は、ほとんど不可能な計画となったわけですが、まだかすかな望みを捨てきれず、スペースシャトルが飛んでいる限りは、ひょっとしたら実現するかもしれないと思っていました。
 そこで、文書で宇宙飛行士の講師派遣依頼を文書で出すことにしました。

 宇和町行政サイドおよび町長とも協議し、受け入れ態勢は作れるようにお願いしておきました。2000年のことです。

 本来、この講師派遣依頼というのは、宇宙開発事業団職員をさすものでした。しかし、注釈で必ずスペースシャトルの宇宙飛行士を派遣して欲しいということを強くお願いしました。

 そして、何度も何度もずっとずっと電話をかけてお願いしたわけです。
4.宇和町来町決定[2002年]
 やはり困難な計画だったのかと諦めかけていた、2002年1月、宇宙開発事業団広報室から、「若田光一飛行士が3月に行けるかもしれないが、受け入れ態勢はとれるでしょうか?」という問い合わせが私のところにありました。

 ただし、この時点では、スペースシャトルの運航スケジュールの変更や、宇宙飛行士の訓練スケジュールの変更により宇和町での講演も中止になることがあるという条件付きのものでした。

 その後、2月初旬には東京の宇宙開発事業団へ打ち合わせに行ったり、宇和町科学講演会の実行委員会を組織したりして準備を進めていきました。何よりも大切なのは、文化会館に如何に多くの人に来ていただくかでした。
 広報さえすればたくさんの人が来ると予想されるのですが、多く来すぎて座席が無くなっても困るという心配で、PRも最小限にとどめました。

 そして、ひょっとして講演が中止になったらすべての責任は自分がとらなければならないという不安を抱えながらも、不可能とまで思った講演会が実現できることの喜びをかみしめながら講演の日を迎えました。


 若田飛行士のお人柄と、その科学講演会にかかった経費がほとんど無かった(交通費など実費のみ)ことが印象的でした。この場を借りまして、若田飛行士、宇宙開発事業団広報室のみなさま、宇和町行政関係の方々、学校関係者各位に感謝いたします。
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