■まつやまワールド

ふらりと四国八十八ヵ所

〜パラリーマン風・四国八十八ヵ所のまわりかた〜


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■ 「初めての八十八ヵ所巡り」回想禄


 我が町「宇和町」は四国の西部に位置し、ちょうど宇和島市・八幡浜市・大洲市に囲まれた地域です。四国八十八ヵ所第43番札所「明石寺」のある場所で、町中をお遍路さんがいつも歩いています。したがいまして、僕の88ヵ所巡りはここからはじまり、ここで終わります。
 この回想録は、ほとんど忘れていた思い出をユースホステルの宿泊印と約200枚に及ぶリバーサルフィルムを基にして記憶をたどりながら書き記したものです。

 1.今思い起こせば

 何もわからず、四国88ヵ所巡りをしたのは、大学2年の夏休みの時、当時19歳でした。今から21年前です。
 祖母が随分羨ましがっていたのを覚えています。今思えば、一緒に連れて行ってやれば良かったくらいです。また、「おばあさんが勧めたー」という中学校の親友も一緒に回ることになりました。というか、その友がいたからこそ、その時回れたのかもしれません。

 足は、僕の車で後の交通費は割り勘。泊まりはユースホステル利用。贅沢はしませんでしたが、貧乏学生をしていた頃だったので、お互い出費はかかりました。当時、納経が200円だったのですが、これもこたえたように思えます。また、境内の駐車料や参道の通行料などが必要な寺院もあったりして、そのたびにギクッときたのが印象に残っています。

 我が町の第43番札所明石寺から出発し、2週間後にまた、同じ明石寺に帰ったときには、その旅が楽しく新鮮だったせいもあり、妙に充実した気分でした。しかし、2度目を回るようなことになるとは、その時つゆぞ思わなかったのです。

2.いよいよ旅立ち   [第43番明石寺]

 旅の始まりは、昭和55年(1980年)8月11日の暑い日差しが射し始めた頃でした。
 何の準備もなかった僕は、明石寺の売店で納経帳と納札入れを購入しました。その足で、第43番札所明石寺のお参りを済ませ、納経をしてもらいました。真新しい納経帳に黒い隅がはじめて入ったわけです。「これから参るぞ!」というファイトのようなものが滲み上がりました。
 そのとき同行の友は、おばあさんが一度回ったものを納経帳として使うことにしていたので、朱肉の判を2重に押してもらうようでした。納経代は同じ200円なのに、ちょっともったいない気がしました。

 この日は、石鎚・面河渓の関門YH(ユースホステル)に行くだけの行程でした。そして、翌日の石鎚登山に備えたわけです。
 第一日目に今でも忘れられない思い出があります。宇和町から面河へ向かっている道中、私が車を運転していたのですが、大蛇を曳いてしまったのです。大きなロープか木の枝が田圃道に落ちていると思って、蛇も気持ちよさそうに横たわっているのですぐに逃げることができず、悲劇となってしまいました。車で走ったときにも、ポコポコと何かをしゃいだような感触でしたが、バックミラーで見ると後ろで飛び跳ねてました。2mもあろうかというほどの丸々と太い奴で、それだけ元気だったので命には別状無かったことでしょうが、88ヵ所巡りが終わるまでその時のことが気になっていました。

 8/12、第2日目は、石鎚山に登山し、また同じ面河の関門YHに宿泊しました。石鎚山は石鎚スカイラインを車で上り、終着の土小屋から山頂を往復しましたが、ガスが掛かっていて、景色はあまり見えません。(正確に言うと、山頂付近のみガスが掛かっていて、全貌が表れたのはホンの一時)  登山の時は、晴れたとき以外は止めるべきだと強く感じました。
 また、石鎚山の鎖場は、かなり危険なので、一生もうここは登るまいとこれも強く思ったのですが、月日の経つのは恐ろしいもので、今から5年ほど前に、また、子供と鎖場に行ってしまいました。その時、「昔、88ヵ所を回ったとき、二度とここへは来るまい。」と強く思ったのを思い出したのですが、後の祭りです。もう、今度こそ行かないと思います。
 それで、第2日目は参拝無しで、帰ってから面河渓谷で1日を過ごしました。


 3.第3日目からは黙々と札所を回る   [第44番大宝寺〜第59番国分寺]

 第3日目の8/13、第45番岩屋寺からスタートです。
 先日、家族と岩屋寺へ行ったのですが、すごく登りの道のりが長く、難所でした。しかし、若かったせいもあるのか、このときは山道にもさほど気にならず、「少し歩いたな」という印象でした。
 登り道の参道を15分程歩いたでしょうか、やっぱりこの日も蛇に遭遇。シマヘビのようでした。昨日は青大将だったでしょう。見たときにびくっとするので、できればお目に掛かりたくはないものです。ひょっとしたら、毎日蛇を何処かで見るのかもしれないと予感がしましたが、結局は、最後まででこの2匹だけでした。
 岩屋寺へ着くと、これは貴重なお寺で、その名の通り岩を屋根にしているといった感じで、そのみごとな寺院建築に感激しました。

 その後、第44番大宝寺を参拝し、国道33号線三坂峠を通って旧遍路道に入り、第46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺と打ちました。八坂寺は初めて見る鉄筋コンクリート造のお寺で、これからはこんなスタイルのお寺も増えてくるのかなと思いました。のちに、もっとお寺を感じさせないお寺もあったのですが。

 それからは、札所の番号通りにすすみ、第48番西林寺、第49番浄土寺、第50番繁多寺、第51番石手寺へと一気に進みます。ここらは道草も食わず今治地方までひたすらお参りをしました。第48番西林寺は、納経を書いてもらったのがお寺のお嬢さんのようで、僕は19歳でしたが、ずっと年下に見えて、「ああ、お寺の家族の方はみんな納経はできるんだ」と知りました。旅に出ると新しく知ることは多いものです。
 また、石手寺には石の手がありました。それで石手寺かとそのときは納得したのですが、平成12年に行ったときにはそれはなくなっていました。冗句だったのでしょうか。変に納得していたので、騙された気分です。

 その後、第52番太山寺、第53番円明寺、第54番延命寺、第55番南弘坊、第56番泰山寺、第57番栄福寺、第58番仙遊寺、第59番国分寺と回りYHいよ法華寺に泊まりました。仙遊寺は山寺で、多分ここが初めて車での通行料金が必要で、心にショックでした。なんせ、初めての体験だったので。

4.第4日目、最大の難所第60番札所横峰寺へ   [第60番横峰寺〜第65番三角寺]

 8/14,横峰寺へのチャレンジです。
 ここは、はじめから難所と聞いていて、当時は健脚でも片道2時間は見ておかなければならないと言われていたほど、打つのに困難を要する札所でした。はじめから、ここが最大のポイントであり、楽しみでもありました。
 今では道がついていて、それ程大変ではないようですが、当時表(瀬戸内海側)と裏からの2方向から参詣するようになってました。僕たちは表からの川沿いの道無き道を選び、せせらぎで道がわかりにくい部分もありましたが、もくもくと山を登りました。丁度、高野山からお坊さんも道連れになり、3人で延々と登りました。登ったときのことばかりが思い出されます。とにかく、大変でした。
 今度はきっとかなり楽になっていると思います。

 午前中で難所を終え、後は鉄筋コンクリートのビルのような第61番香園寺、第62番宝寿寺、第63番吉祥寺、第64番前神寺、第65番三角寺まで回って、阿波の池田YH泊。翌日の雲辺寺に備えます。三角寺は大変眺めが良かったように記憶しています。また、池田は盆踊りの時期でした。

第5日目 [第66番雲辺寺〜第75番善通寺]
 8/15,前日にYHのミーティングで大歩危小歩危の川下り(今で言うラフティング)のPRをしっかりするもんだから、一応四国三郎吉野川で遊んでから(川下りを楽しんでから)第66番雲辺寺を目指す。その時のことは、今思い出せない。ロープウェイもなかったので池田側からくるまで登ったのであるが、登りが車でも大変だったかなという位の印象である。3年前に今度はロープウェイで登って行ったが、全く記憶に残ってなかった。
 
 その後、第67番大興寺、第68番神恵院、第69番観音寺、第70番本山寺、第71番弥谷寺、第72番曼陀羅寺、第73番出釈迦寺、第74番甲山寺、第75番善通寺を参拝し、琴平青年の家YHに宿泊。
  琴平青年の家に行くとき、旅館のおばさんだったか、夜走っている自分の車のヘッドライトに向かって片手でグウとパーを出している人が数人いた。これはその後体験しないが、たぶん宿が空いてますよということだったのだと、今でも思っている。
 第67番太興寺は、小高い丘の上にあったが、このような地形だと夏には雨が不足するんだろうな、満濃池もこの辺にあるんだろうなと思ったのだったが、実際はもう少し東にあった。第68番神恵院、第69番観音寺は一つの境内にあって印象に残っている。後は、記憶をたどるが思い出さない。お寺参りも、回るのだけで精一杯になっていたんだろう。

5.第6日目、初めて「こんぴらさん」詣出  [第76番金倉寺〜第83番一宮寺]

 8/16,朝一番に金比羅さんに行きました。
 恥ずかしながら四国に住んでいながら、金比羅山へ行ったのは初めてでした。その後も行ってないのですが、石段の両脇にお店やさんがたくさん並んでいて、杖を持って行けと言われました。後で気づいたのですが、杖を借りると帰りにその店で何か土産物を買わなければならないという暗黙の暗示をかけらる訳です。そして、その土産が割高で、値切ることなど知らない私は、少し何か買ったような気がします。
 それが災いして、それから先土産やさんにはめっぽう用心深くなりました。
 境内には、船関係の大きな絵馬が奉納されていたりして、人々に信仰の厚さを感じたものです。また、石段を数えながら上がりまして、およそ千段近くあったような覚えがあります。あまり言われていたほど苦にはなりませんでしたが、これも若かったからでしょうか。

 その後、第76番金倉寺、第77番道隆寺、第78番郷照寺と回りました。しかし、旅も半ばにさしかかったためか、なんらかの拠り所の記憶が甦りません。21年も前のことなので忘れてしまった部分も半分位となってしまいました。88ヵ所回ったすぐ後でも、半分くらいは忘れてしまっているのかもしれないなと思います。
 第79番天皇寺は、神社と並んでいました。平地のお寺ですが、道がちょっと入り組んでいて、静かなところでした。第80番国分寺は旧道沿いの大きなお寺ですぐに見つけられました。近くに池もあったように思います。第82番白峯寺、第83番根香寺は、高松の山の上に位置し、やはり、平地のお寺と違って山門があったり、境内まで階段で上ったりでしたのでありがたいというか、お寺らしく感じました。その雰囲気と反対で次の第81番一宮寺は、町の真ん中で、さりげなくたたずんでいました。どのお寺がどうというわけではないですが、ありがたいものです。

 やっぱり、四国の初めての旅のせいもあり、この日は小豆島に行くことにしました。夕方フェリーで小豆島オリーブYHへわたり、夜は夏祭りだったため、YHとしての飛び入り参加で、盆踊りの列に加わって踊りました。これも、忘れられない思い出です。

[第7日目、小豆島観光]

 8/17は、一日中小豆島観光となりました。寒霞渓、銚子渓や岬の学校など、これまで遠くで感じていた部分を観光して回りました。また、小豆島内にも巡礼の札所のようなものがあり、信仰が盛んだということを知りました。
 この日は、高松に帰り、高松市YHに泊まりました。

6.第8日目、ここも初めての屋島

 8/18、高校の教科書などに源平合戦や、地形が盾状で火山の一種として紹介されている屋島へはじめて行きました。
 このときは、屋島に行くということだけが先行して、88カ所参りのことはマンネリ化してきた感じがします。2回目行ったときに、第84番屋島寺の風景は思い出すことができませんでした。ただ、愛車のスカイライン・ジャパンで山を登ったことだけがかすかに記憶に残っています。
 今、思い出せばそれくらいが脳裏の片隅にあるだけで、21年前のお四国さんは、忘れてきたようです。ですから、その後の85番八栗寺、86番志度寺、87番長尾寺、88番大窪寺については、全く記憶に残ってないのです。ただ、ラジオを聞きながら二人で車を走らせたことを覚えています。そして、この日は鳴門YHに宿泊しました。

 8/19からは、1番霊山寺への心新たな気持ちでのお参りです。ここらは、ひたすらお参りしたような気がします。ただ、印象的だったのは、第4番大日寺です。これまではどこもお寺の住職さんかその家族の方が筆で納経してくださっていたのに、ここだけは木版で押されたのでした。びっくりして「ちょっと待ってよ!」と言いたい気分でしたが、実はこの方が正式であると言うことを後で知りました。
 2回目に回ったときには、毛筆になってました。
 この日は、12番焼山寺まで回って、徳島YHに宿泊でした。

7.第10日目、23番薬王寺まで行って日和佐YHに泊まる

 恥ずかしながら、ここまで来ると記憶に残っているところがいよいよ無くなってきます。
 本当ならば、「遍路ころがし」という、43番から始めた場合のクライマックスとなるのがこの辺りだと思います。
 しかしながら、当時のわれわれは若かったせいか、日和佐といったらウミガメか、などということの方が興味があったのかもしれません。
 ともかく、罰当たりですが、ひたすら鶴林寺・太龍寺を回ったのでしょう。なんだか、太龍寺ではよく歩いたということがかすかに覚えています。しかし、先日行ったのですが、境内の光景は初めてのものに等しかったです。20年ほど前の記憶なんて。。。
 薬王寺についても、厄年なんて自分には関係ない、などと思っていた年頃でしたから、23番にこんなお寺があるんだ、随分前の道路には車が止まっていて、参拝者も多くにぎやかなのだと感じたものでした。その夜、YHのミーティングで聞いたウミガメと昭和天皇の話、”昭和天皇が日和佐に来られたことがあった。天皇は生物学者だったので、ウミガメを実際に見てもらおうということになったのだそうだが、あいにく、捕まえたウミガメがいなかった。そこで、アオウミガメをどこかから段取りしてきて、天皇陛下に見せたそうな。そしたら、陛下は日和佐に来るのはアカウミガメでしょう。とその猿芝居を見破ったそうな。」そんなペアレントさんからの話は、今も忘れずに覚えているのです。
 ここらから後は、お参りより初めて回った四国1週の旅のことしか思い出せません。

8.第11日目、はじめての室戸へ

 これまでもはじめての道でしたが、室戸はこれまで行ったことがありませんでした。
 日和佐から室戸へ向かう国道55号線は、随分ときれいに当時でも整備されていて、私が住む四国西部とは圧倒的にその様子が違っていました。海岸の美しい風景が何物にも代え難い人を引きつけるものがありました。
 室戸岬は、随分と急な海岸段丘に無理矢理つくった道路を上りました。それから、また石段を登るという、そんなロケーションが印象的でした。そして24番最御崎寺に到着。残念ながら、境内については記憶になく、先日行ったときにも「こんなところだっけ?」と思った始末です。もっと、詰めて何度も回らなければならないと思いました。

 後、27番神峯寺。山を随分と登った果てで、寺の山腹を利用した庭園というか、良く手入れされた植木が今でも覚えています。その中を本道へと向かいました。りっぱな杉の木もたくさんあったという気がしています。

 ここからは、情けないのですが、記憶を蘇らせることができません。後は、31番竹林寺が高知の山の上にあったというかすかな記憶が残るのみです。この日は、高知駅前YHに宿泊しましたが、どんなところだったかも今、全く思い出せません。

 そして、第12日目8/22。高知を抜けて、足摺岬までお参りしました。ひたすらお参りしたのだと思います。先程から述べているように、ここら辺り、何も覚えていません。覚えているのは、足摺崎の白皇神社YHの夜のゲームが大変盛り上がり、面白かったことだけです。

9.第13日目、家路・宇和町へ

 8/23,最終日昨夜のゲームの余韻も残りながら、初日の出を見に行く。
 そして、38番金剛福寺を打った後、当時まだ有料だった足摺スカイラインを通って宿毛の39番延光寺へ行く。そして、40番我が愛媛に戻り、最初の観自在寺へ。順番に、三間町の41番龍光寺、42番佛木寺を打ってひる頃、我が町43番明石寺へお礼参りをして今回の旅を締めくくった。
 初めての車での長旅で、いろいろあったが、何とか終えることができた。

10.翌年、GWに高野山へ満願参り

 高野山へ行くのは、1年明けてからとなった。
 高野山は、広島を出発して車で行くこととなったが、金剛峰寺から奥の院までは歩いた。当時、弘法大師が入定したなどということは全く知らずのお参りだった。
 初めてだったので、また、旅慣れてなかったので何もかもが新鮮で良い経験になった。しかし、これを何度も繰り返して回ることになるとは、全く予想もしなかったのである。

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